人は、気持ちが高ぶると、言葉ではつたえきれない、言い表せられない思いで、心が溢れてしまう時があります。
理論立てて、意味のあることを誰かに伝えるための論文や、筋道立ててここではない別の世界のものがたりを紡ぐ小説とは異なり、詩というものはとくに、「つたえきれない見えない思い」をそのまま文字の上に留めたものではないかな、と私は思っています。
意味のあることばかりを追いかけて、行間のない生活にくたびれてしまい、自分がふわふわと定まらないような夜。忙しい毎日の中で、ぽっかりと思いがけず空いてしまった時間をどう過ごしていいのかわからなくなってしまった時。暮らしの狭間で、現実の中を浮遊する実態のない自分の心を、つい見失ってしまいそうになったとき。
わたしは、何も考えず、自分が大好きな詩集を開きます。
つちのなかは
かえりつく場所
かんがえず うれえず
ねむるゆりかご
ねむりながら あめにうたれる
どこまでもどこまでも
たいらかなじめんは
あめのおとだけきくみみの
つちのなかのわたしのひふ
あらたなかたちの
はじまるまで
(本文より)
連なるその文字のかたちを、大切な人とかつて一緒にいた過ぎ去った時間を慈しむかのように、ひとつひとつ噛み締めながら、繰り返し繰り返し読みます。
読み手の我々は、詩を書いた作者の衝動や動機や、その作品が産まれた背景を完全に知ることなどはできないけれど、それでもその言葉たちをじっとみつめ、読み、ときには声に出してその音を聞くことで、その作品が生まれようとするときにそこにあったはずの空気を感じることができる気がします。
巧みな詩は、それを声に出し、音として耳でとらえたときに、ほんとうの力を発揮するものだと思います。心をとらえて離さないほど、好きな詩を見つけたら、家族や大切な人に読んであげると、良いですよ。いつもとは違う空間がそこに急にあらわれたような不思議な感覚を味わえます。
大切な詩集が一冊でも手の届くところにあれば、やりきれない思いが心に溢れた夜、ただそばで寄り添ってくれる友達がひとり増えたような気持ちにさえなります。
(文・野原こみち)