今年は梅雨明けが早く、真夏日が早い時期から始まったことと
天候不順のため、のんびりと夏のお散歩を楽しむと言う気にならなかったのは正直なところです。
あまりにも暑い日は、早朝から気温も上がり
日中などは、なるべく外出を避けるようにしていた人が多かったことでしょう。
ほんの少し外出しただけでも、熱中症になってしまうような猛暑日が続きましたからね。
しかし、ここ数日の朝夕は、秋を感じさせるような涼しい風が吹きはじめています。
日中を避け、夕暮れ時ならお散歩も楽しめるかも。
と、出かけたのは、夕方なので近場を狙って、東京の下町を代表する
「佃島」をお散歩してきました。
地下鉄で最寄駅の「月島」で下車し、
地上へ上がると、昼間の熱気が地面に残り、
日没前の太陽がギラギラと輝きを放っています。
しかし、表通りから一歩裏通りの日陰になっている路地へ入ると、
エプロン姿のおばあちゃんがジョウロで玄関先の植木に水やりの最中。
そんな風景に、なんとなく気持ちが緩やかになります。
その数軒先の商店のご主人は、バケツを両手に下げて、少し先の家の前から
順番に打ち水をしながら、ご自分の商店まで歩いていらっしゃいます。
その傍から、子供たちが数人駆け回っています。
すかさず、「ハネが上がるから走るんじゃないよ!」
と、威勢のいいおじさんの声が。
ここは、昔ながらの江戸の生活が根付いているんだと、なんだか嬉しい気持ちがこみ上げてきました。
月島界隈は、「もんじゃ焼き」の町として、全国的に知られていますが
その月島と隣り合わせに、ここ「佃島」があります。
佃島(つくだじま)は隅田川河口にできた自然の寄洲です。
江戸時代の初代将軍徳川家康の時に摂津国佃村(現大阪市西淀川区佃町)の
漁師を招いて住まわせたところからこの名がついたと言われています。
この島と対岸(湊町)の間には「佃の渡し」が、昭和39年の佃大橋の完成までの間、
最大で1日70往復も運航されていました。
佃大橋が完成するまでは「本当の島」だったのです。
また、佃島といえば「佃煮」ですよね。
もともと「佃煮」は、当時の佃村の漁師たちが、
漁に出られないときや漁船での食料として、小魚を保存のきくように塩で煮て、
その後醤油によって煮て保存食にしていたのが始まりで、そののち、
諸国の侍たちが交代で帰国する際、土産(みやげ)物として持ち帰ったところから、
江戸名物として全国に広まるようになったそうです。
また、こんなエピソードもあります。
かつて家康が本能寺の変のとき
退路を絶たれて大阪を逃れ岡崎城に戻るとき
佃村のひとたちに助けられたのですが、
その際に、村の人に佃煮をわけてもらったという話が
あります。それ以来、
佃村のひとたちは大名屋敷の台所に出入りする特権をあたえられ
一部の人達がこの地に移り住んだと言われています。
今も、漁村だった当時を偲ばせる佇まいが、ところどころに残っています。
ここでは、ハゼ釣りを楽しむ地元の人や、わざわざ釣り竿を持って通っているという
熱心な釣り人も多く、特に週末は賑わっているそうです。
そして、佃島の中心には、佃島のシンボルとも言える住吉神社があります。
この住吉神社は佃島の由来と同じで、摂津国西成郡佃村(現在の大阪市西淀川区近く)の
漁師たちが移住した際に、江戸摂津国佃鎮座の住吉社(現田蓑神社)から分霊し
徳川家康の霊を奉遷祭祀し、住吉神社を創建したという事です。
神社創建は1646年(正保3年)ですから360年前後の歴史があります。
正面鳥居の上にある扁額は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染付けています。
明治十五年(一八八二)六月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁(たかひと)親王です。
水盤舎と陶製扁額は、共に中央区民有形文化財に登録されています。
ふと見上げると、目の前には、リバーシティ21という高層住宅が見えています。
ここは、都心回帰の促進の為、住宅市街地総合整備事業の
整備計画として進められた再開発の場所です。
近代的な高層マンション群と、住吉神社や、
佃公園界隈などの下町情緒溢れる人々の暮らしの風景が
なんとも、自然と調和して見えるから不思議です。
リバーシティ21近くの、中央大橋や川沿いの遊歩道を歩けば
隅田川からの心地いい風が昼間の暑さを忘れさせてくれます。
残暑厳しい東京も、9月に近づくと、朝夕は、涼しい風が吹くことも多くなります。
晴れた日の夕暮れ、川からの風が心地いい、下町をお散歩というのも情緒があっていいものです。