湖畔の愛/町田康

こみちの本棚 27冊目

昔からホテルや旅館が好きである。
いや、正しく言うとすべてのホテルや旅館がもれなく好きなわけではない。
清潔感があってホテルのスタッフの方の心意気がそこかしこから感じられる施設が好きなのだ。
私の両親は私が産まれる前ふたりとも旅館で働いていた。母は私を出産すると同時に退職したそうだが、父は私が小学校の低学年くらいになるまで、宿泊施設で働いていた。正真正銘、ホテルマンだった人だ。
幼い頃、父親の働く職場の旅館によく連れていってもらい、大きな湯船に入らせてもらったり、旅館のスタッフの人にかわいがってもらったことを今でもよく覚えている。その頃なにより好きだったのは、大浴場のとなりにあるボイラー室のにおい。大浴場と本館を繋ぐ廊下にあるゲーム機が置かれているあたりのメカニカルなにおい。お土産売り場にある美味しい飲み物がたくさん入っている透明の冷蔵庫のにおい。旅館の中にはいろんないいにおいのする場所があった。食べたものや遊んだおもちゃよりも、においのほうがはっきり記憶に残っているのは不思議なことだ。
幼き日の素敵な思い出の断片が頭の片隅に散らばっているわたしは、今も旅先などで訪れるホテルや旅館のにおいを感じるのが好きだ。わざわざ鼻をひくつかせて動物のように嗅ぎ回ったりはしないまでも、小さい頃の記憶を引き出すような懐かしいにおいを感じるとうれしい。礼儀正しく、優しく、にこやかに応対してくださるスタッフの方がいれば、5割増しくらいにありがとうございますと感謝の気持ちを述べたくなる。
小さい頃、旅館で生き生きと働く親の姿を見ていたから、一度くらい自分もホテルマンになるという道を考えても良さそうだったものの、なぜか外からリスペクトはしても、自らその職業に就こうと思ったことは一度もない。なぜだろう、と考えたら、答えは簡単だった。私は人に対して臆病なところがあるのだ。おまけに根がネガティブ思考なので、招かれざるお客様が大挙して訪れる想像ばかりしてしまって、とても晴れやかな笑顔でなどいられないだろう。
だからこそ、初めて行ったホテルで初めて会うホテルマンの方から笑顔で迎えられると、泣きそうなほどありがたい気持ちになってしまう。

「湖畔の愛」はホテルが舞台の物語である。
著者が町田康となれば、それがよくある普通のホテルではないと予想できると思うが、登場するホテルマンも宿泊客も、奇抜な人物ばかり。奇抜な人物が集まれば、奇抜な出来事が発生する確率が自然と高くなる。むしろ奇抜な出来事しか起こらないくらい。
実際にホテルに勤めているとすれば冷や汗だろうと思われるようなエピソードが多発するが、読んでいるこちら側は不謹慎?にも笑ってしまう。
真面目なことを考えすぎて疲れたから頭の中だけでも面白おかしいバカンスへ行きたい。そんな願いを抱いたら、ぜひこの本を片手にあてのない旅に出てみてはいかがでしょう。
その際、ホテルマンへの大いなるリスペクトは、忘れずに心の中にお持ちください。

湖畔の愛
町田康
新潮文庫

(文:野原こみち)

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