世代によって多少の違いはあるだろうが、私が初めて手にしたのは中学に入学する時だった。それも、某出版社が発行している中学生向けの雑誌を年間購読する特典として貰えるという代物で、ペン先はステンレス製だった記憶がある。それでも当時は嬉しくて、これで少しだけ大人に近づいた気分になり、そして更に少しだけだが、しっかりと勉強をしようとも思った。万年筆の話である。
黒いインクを入れて、自分の名前を書く。拙い字が少し大人びて見える。当時は今と違い、それほどシャープペンが普及していなかったので、筆箱には普通の鉛筆が数本と消しゴム。それと赤いボールペン。そして万年筆が入っていた。クラスには同じ様に特典の万年筆を持ち歩いていた同級生が何人もいた。果たして今の中学生は、何を手にした時に大人への階段を登り始めた気分になるのだろう。携帯電話やインターネットですら小学生の頃から身近に親しんでいる様だし、個室を持ち自分の観たいテレビ番組を録画して好きな時に観られる。いや、パソコンがあるから、テレビすら観ないのか。そういえば初めてレコードを自分の小遣いで買った時も少しだけ大人になった気分になった。
効率と経済性。基本的に技術や文明は、この二つの要素で進化する。より高くとか、より速くとか、より永くとか、より安くとか…。
そう考えると、例えば万年筆という筆記具はボールペンなどと比べると極めて非効率的である。もちろんインク壺にペン先を浸して文字を書くペンと比較すれば、インクさえ充填すればひたすら書き続けられる、つまり万年でも書ける筆として一九六〇年代までは主力の筆記具だった。しかしその利便性が一九七〇年代に入るとボールペンやサインペンなどの筆記具に凌駕される。それでも今日まで万年筆がある特定のステイタスを持って存在し続けるのは、効率や経済性では推し測れない
〝気分〟
という要素を有しているからではないだろうか。煙草に火を点ける道具がマッチからライターに替わり、やがて百円ライターが世界中で普及しても高級ライターやオイルライターの人気が衰えないのも、効率や経済性と相反する〝気分〟であろう。CDに対するレコードも然り。アメリカでも日本でも、二〇一三年に比べて二〇一四年はレコードの生産枚数が前年を上回ったそうである。CDの販売枚数が音楽ダウンロードの普及と反比例する様に減少し続けている世界的な傾向に比べて、レコードの生産枚数が上向いているということは、音楽を楽しむ〝気分〟が変化してきている兆しだろう。
筆記具で文字を紙に書くという行為。昨今ではパソコンやスマートフォンの普及で、めっきり減ってしまっているのではないだろうか。読めるけれど書けない漢字が増えていく。脳への刺激が少ないと、思考能力も低下してしまうらしい。そういう時、少し良い万年筆を身近に持つと、つい文字を書きたくなってしまう。文字を書く手段としての筆記具が、文字を書くという目的を生み出す。主従が逆転しているが、これこそが趣味の醍醐味。つまり〝気分〟を満たす道具ではないだろうか。オートバイに乗る人間は、移動が目的ではなくバイクに乗ることが目的で遠出をする。日本刀を愛でる人は、手入れすることに余念がない。直筆で文字を書くのと、パソコンのキーボードをたたくのでは、思考回路も変わって いるのではと思う時がある。新しいことを創造したり、考えをまとめる必要がある時は、何故かパソコンに向かうのではなく、白い紙と鉛筆。あるいは万年筆。そして〝書く〟という行為が脳を刺激するのかもしれない。あるいは指を通じて、手を通じて、脳に刺激を与えているのかもしれない。
そういえば、七夕の笹飾りにする短冊への願い事。
まさかこれをパソコンのプリンターで打ち出す人間はいないだろう。やはり願い事は下手な字でも構わないから、手書きに限る。そうすれば天の神様も気持ちを込めて読んでくれるに違いない。