マウスホイールを半回転するだけで、僕の人生をすべて捧げても到底作れないような量(もしくは熱量、技量)の作品が画面の上を滑っていく。
ちょうどよい塩梅という後ろめたい条件のもとでネットにある配信作品を探していると、それらを打ち壊してしまうような映画が飛び込んできました。
“NA SREBRNYM GLOBIE”というポーランド語の見慣れない文字列が堂々と入り、アニミズムを思わせるシャーマンのような衣装を着た人物が瞳の描かれた手のひらをこちらに向けているジャケットは、それだけで「銀の惑星」の世界へ入り込むには十分すぎるビジュアルで、A・タルコフスキーによる『ストーカー(1979)』で感じたような美しさとはまた違った、力強いSFの世界観が垣間見えました。しかしこの時はまだ、この作品が近未来の技術や文化をメインに据えた、未知の惑星に思いを馳せるようなものとは全く違うことに気がついていませんでした。
『シルバー・グローブ/銀の惑星 (1988)』は地球に似た環境の惑星に不時着した宇宙飛行士と、何倍もの速さで成長を遂げる子孫たちの成長や文明、宗教の発生などを描いたポーランドのSF映画です。80年代のカルト的人気を誇るSF映画というだけでも少し観辛いのですが、2時間40分という上映時間に加え、映像の1/5が監督による描写の音読で代用されているという「ちょうどよい塩梅」からはほど遠い振り切り具合に、なにか意地を張るような気持ちで鑑賞を決めました。
全編に渡り音楽の無い思想のミュージカル、もしくは哲学書の朗読のような雰囲気が漂っていて、その異様な「流れ」のようなものが現実社会を覆い包む概念のレイヤーと重なり、銀の惑星を実在の惑星としても、現実の社会としても成立させている奇妙な作品です。
草原で馬を駆る原住民の男性の映像からこの作品は始まります。監督自身の音声によって、ポーランド政府に撮影を中止させられた事、それによって失われた映像を音声で補完した旨などがメタ的に語られる一方で、最近のCGに見慣れた目には馬の躍動感や土埃、作り込まれた衣装や小道具の1つ1つに新鮮な迫力を感じ、「意志を持って作られた作品」というリアルさと「銀の惑星で撮られた映像」という相反するリアルさを感じていました。この作品はこの2つのリアルさを軸に、社会を説得力のある「銀の惑星」として異化しながら、信仰と文明(もしくは生活)の機能と傲慢さを風刺的に浮き彫りにしようと試みてきます。
「何者か」であろうとする私達の無自覚の自認(理性)は、偏執的にも感じられるような過剰な演技として描かれ、常にカメラに喰らいつくような役者達の怪演によって揺り動かされていきます。理性による苦しみを理性によって寛解していこうとするような思考実験とも言えるこの作品は、全編を通して非常に現実的で、同時に非現実的である必要があったのです。
「非人間的な明快さ」という、理性とは真逆のものへの理性による探究が非常に印象的な作品でした。
関根久無
オランダの造本や国内の書籍装幀が好きなデザイナーです。
『マローボーン家の掟』や『TRUE DETECTIVE Season1』などの、少し画面が暗めの洋画や洋ドラマが好きでよく観ています。マイブームであるメガネ集めは、似合う/似合わないよりも造形の格好良さが気になり始めたので、そろそろ身の危険を感じています。