こみちの本棚が、こちらの日記からWEB限定記事のほうに移動になりました。
なので、今後こちらでは、わたしが時々思い立って行く「散歩」の記録を綴ることにいたします。
つい先日ですが、突然思い立って、ひとりで両国に出かけました。
ちょうど国技館では9月場所の真っ最中。最近の相撲人気の盛り上がりもあって、国技館の前は大賑わいでした。
当日券の列に並ぶ…のが両国に来た目的ではないので、満員御礼の垂れ幕を横目に通り過ぎ、しばし、街をうろうろします。
総武線の高架下を抜け、自転車に乗ってやってくるお相撲さんと横断歩道ですれ違い、ぐんぐん進んでいくと、つきあたりにあるお寺「回向院」。
こちらのお寺は、明暦の大火で亡くなった十万人以上ともいわれる犠牲者のために作られたお寺。
そして、忠臣蔵が好きな人はピンとくるかもしれません。旧吉良邸のすぐ近くにあるお寺であり、赤穂浪士が討ち入りの本懐を遂げた後に集合場所としていたらしいのですが、関わり合うことで幕府からのお咎めを受けることを恐れた僧侶たちが、入山を拒否したのだとか。
他には、あの有名な江戸の盗っ人大スターである「鼠小僧次郎吉」のお墓があります。鼠小僧がなかなか“つかまらなかった”ことから、墓石を削ってお守りにしていることで合格祈願や金運、勝負運がつくとのことで、墓石の前には、削り取り専用の「お前立ち」の石がたっています。
そして、わたしがお参りをしたかったのは、この鼠小僧の裏にひっそりとあるお墓、江戸時代に活躍した浮世絵師であり戯曲家、作家でもあった「山東京伝」のお墓です。
山東京伝は、わかりやすく言うと「お江戸のマルチクリエーター」で、55歳で亡くなるまでにものすごい数の作品を残しています。あの「南総里見八犬伝」の曲亭馬琴が一時弟子入りを志願したほどですから、江戸の文人の中ではかなりの才能の持ち主だったのだと思います。元々は、深川の質屋の息子だったそうですが、絵師、作家として身を立ててからは、精力的に作品を作り続けていたそうです。一説によると、日本で初めて原稿料などの仕組みを作ったのも京伝だと云われているとか。世相を反映したかなり過激な作品も残し、そのせいで幕府からお咎めを受けたりもします。
また、この人は吉原の遊女を二度も正妻に迎えた人としても知られています。花魁を身請けするには相当な額のお金が必要ですから、大きなお屋敷を売り払ったのだとか。膨大な量の作品を創ってお金を稼ぎ、花魁を身請けするのにポンと大枚をはたく…、江戸っ子の粋の塊のような人だな、と思うのですが、現在ではいまいち知名度が低いですね。
回向院のあとは、江戸東京博物館をゆっくり見て回りました。
江戸の出版物、貸本屋などのブースには山東京伝の名前がちゃんとでてきていました。
えらそうに色々薀蓄を書いてきましたが、山東京伝の文献は読みやすい現代語訳されている書籍が大変少なく、わたしもまだ少ししか読めていません(笑)。
江戸ブームの恩恵で、山東京伝の作品が読みやすく現代語訳されないかな、と、他力本願な淡い期待を抱いています。